《シピオネ》(読み)しぴおね

世界大百科事典(旧版)内の《シピオネ》の言及

【イタリア映画】より

…《女》(1917),《さらば青春》(1918)で〈ディーバの映画〉の系譜をひきながらも異色の〈女性映画〉の監督として注目されたアウグスト・ジェニナは,その後,27年から39年にかけて,イタリア,ドイツ,フランスを渡り歩き,イタリアではファシズムのプロパガンダ映画と評された《リビア白騎隊》(1936),《アルカサール包囲戦》(1940)などを撮る。〈イタリア映画最後の日〉と評されることになる史劇映画最後の超大作《ポンペイ最後の日》の4度目の映画化作品(1926)をアムレート・パレルミと共同で撮ったカルミネ・ガローネも,その後1926年から36年にかけて,フランス,イギリス,ドイツ,ハンガリーを転々とし,ムッソリーニ政権下の母国では音楽映画《おもかげ》(1935),スペクタクル史劇《シピオネ》(1937)などの国策映画を撮ることになる。
[国策映画と白い電話機映画]
 知謀の勇将シピオネの決断と国民の愛国心によるローマ帝国の北アフリカ侵略の勝利を謳歌した《シピオネ》は,ムッソリーニのエチオピア侵略戦争を正当化した作品として(ムッソリーニ自身がこの映画の脚本を書いたともいわれる),また実際にアフリカでロケされ,そして建設されたばかりの映画都市チネチッタで作られた最初の超大作として,ムッソリーニのもっとも気に入った映画であった(1937年のベネチア映画祭で,のちのグラン・プリに相当する〈ムッソリーニ杯〉を授与された)。…

※「《シピオネ》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」