《ダントンの死》(読み)だんとんのし

世界大百科事典(旧版)内の《ダントンの死》の言及

【アイネム】より

…オーストリアの作曲家。ブラッハーに作曲を学び,1947年十二音技法を用いたビュヒナーによるオペラ《ダントンの死》(1944‐46),53年カフカによるオペラ《審判》をザルツブルク音楽祭で初演,世界的な名声を得た。新古典主義的な手法から出発し,リズムへの関心をブラッハーやストラビンスキーから受け継ぎ,ジャズや十二音技法を採り入れながら,劇的な音楽において本領を発揮。…

【ビュヒナー】より

…革命運動の失敗後,翌35年シュトラスブルクへ逃走。この直前に生まれた作品が,悲劇《ダントンの死Dantons Tod》(生前に発表された唯一の作品)で,革命家と並んで民衆が鮮明な輪郭をもって描かれている。ビュヒナーは逃亡後,哲学の研究にも意欲を燃やすが,36年秋チューリヒ大学の解剖学の私講師となる。…

※「《ダントンの死》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」