《ポーリンの危難》(読み)ぽーりんのきなん

世界大百科事典(旧版)内の《ポーリンの危難》の言及

【連続活劇】より

…アメリカの連続活劇は新聞小説と結びつき,日刊新聞に支援されたことにその特色があり,新聞は週末にはその映画化が見られる小説を競って掲載する。《シカゴ・トリビューン》はハースト系の《シカゴ・アメリカン》を圧倒するため,1909年にハリウッドで最初の撮影所をつくったウィリアム・セーリグと手を結び,〈恐れを知らない娘〉カスリーン・ウィリアムズ主演で15のエピソードからなるアメリカ最初の連続活劇《カスリーンの冒険》(1913)を製作,14年1月から5月まで13編に分割上映し,一方,《シカゴ・アメリカン》はパテー社と結び,パール・ホワイトPearl White(1889‐1938)主演,ルイ・ガスニエLouis Gasnier(1878‐1963)監督の20のエピソードからなる冒険メロドラマ《ポーリンの危難The Perils of Pauline》(1914)を4月から12月にわたって公開して対抗した。この《ポーリンの危難》の驚異的な成功により,年6本の連続活劇の製作を計画したパテー社は,つづいてホワイト主演の《拳骨(エレーヌの勲功)》(1915)をヒットさせ,各社は競って連続活劇をつくることとなった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」