《加賀見山廓写本》(読み)かがみやまさとのききがき

世界大百科事典(旧版)内の《加賀見山廓写本》の言及

【加賀騒動】より

…【高沢 裕一】
[加賀騒動物]
 加賀騒動を材料にした歌舞伎および人形浄瑠璃の作品群をいう。最初にこれを劇化したのは1780年(安永9)奈河亀輔の《加賀見山廓写本(かがみやまさとのききがき)》で大坂初演,のちに明治に実録の脚色が許されてから河竹黙阿弥が1876年に書きおろした《鏡山錦楓葉(かがみやまにしきのもみじば)》は,当時の名優9世市川団十郎,5世尾上菊五郎,初世市川左団次,8世岩井半四郎の共演で,この種の劇としては無類の舞台を作ったが,その後の上演数は多くない。この脚本は,同じ作者が5年目に後日譚を書いてもいるが,これは大阪の勝諺蔵(かつげんぞう)の脚本を改作したものらしい。…

【加賀見山旧錦絵】より

…1782年(天明2)1月江戸薩摩座初演。題材は1724年(享保9)4月3日,松平周防守の屋敷で側女みちが誤って局(つぼね)沢野の草履をはき違えたことから沢野に侮辱を与えられ,これを恥じて自害したので,みちの下女さつは沢野を刺して主人の恨みをはらしたという実説を中心に,歌舞伎《加賀見山廓写本(かがみやまさとのききがき)》(奈河亀輔作,1780年大坂藤川座)から加賀騒動の筋をあわせて脚色した作品である。管領足利持氏の臣大杉源蔵はお家横領を謀り,忠臣神崎主膳の弟畑介をそそのかし相模川で持氏を討たせる。…

【加賀見山再岩藤】より

…題材は加賀騒動で《加賀見山旧錦絵(こきようのにしきえ)》の後日譚。《桜花大江戸入船(やよいのはなおえどのいりふね)》(5世鶴屋南北作,1837年3月),《加賀見山廓写本(かがみやまさとのききがき)》(奈河亀輔作,1780)等を改訂脚色したもの。多賀の大領の側室となったお柳の方は情夫望月弾正を兄と称し,二人してお家横領を企てた。…

【奈河亀輔】より

…初世並木正三に師事して劇作を始め,1771年(明和8)初めて中の芝居に名を出し,正三の没した73年(安永2)から約15年間,おもに中の芝居の立作者として40余編の狂言の筆を執った。時代物にすぐれ,なかでも《競(はでくらべ)伊勢物語》(1775),《伊賀越乗掛合羽》(1776),《伽羅(めいぼく)先代萩》(1777),《加賀見山廓写本(さとのききがき)》(1780),《殿下茶屋聚(てんがぢややむら)》(《敵討天下茶屋聚》1781)の5編は《伊賀越》が145日打ち通すという古今まれな大当りをとったのを筆頭にいずれも大入り大当りをとり,初演以後も繰り返し上演された。純然たる歌舞伎狂言を書きえた亀輔は中古歌舞伎作者の祖とされる。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」