《大内裏図考証》(読み)だいだいりずこうしょう

世界大百科事典(旧版)内の《大内裏図考証》の言及

【大内裏図】より

…このような大内裏図が記され,貴族の家々に伝えられるようになったのは,平安中期以後,しばしば火災にあい,宮の全貌がわからなくなる恐れが生じたためであろう。大内裏図の考証としては,江戸時代に裏松光世(固禅)が,《大内裏図考証》32巻としてこれらの絵図,古記録をもとに復元考証したものがある。なお,大内裏はもと皇居としての内裏の美称であったが,のちに両者を区別し前者を宮城,後者を狭義の内裏として使用するようになったと考えられる。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」