《天保水滸伝》(読み)てんぽうすいこでん

世界大百科事典(旧版)内の《天保水滸伝》の言及

【飯岡助五郎】より

…その後,47年繁蔵を殺し,49年には繁蔵の子分勢力(せいりき)富五郎を自殺させ,利根川べりに勢力を張った。50年(嘉永3)江戸の講釈師宝井琴凌(きんりよう)によってこれら博徒の闘争を描いた《天保水滸伝》が講談となり,以後浪曲などにもうたわれ,繁蔵とともに助五郎の名が有名となった。【森 安彦】。…

【平手造酒】より

…下総の笹川で博徒の親分繁蔵と知り合い,その客分となり,大利根河原の決闘で斬り結ぶうち全身に傷を負い,後に死んだ。この平手造酒のイメージは,講談,浪曲の《天保水滸伝》で作られたものである。実名は平田深喜という。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」