《戦争論》(読み)せんそうろん

世界大百科事典(旧版)内の《戦争論》の言及

【クラウゼウィツ】より

…ポーランド人の反乱に際し参謀長として派遣され,帰還後ほどなく病没。死後,妻によって遺稿が整理・公刊され,その遺作集10巻の最初の3巻が《戦争論Vom Kriege》(1832‐34)である。この書物はナポレオン戦争などの実戦経験に立脚し,大衆軍隊による近代戦における用兵から戦争の本質論まで含み,近代的戦争,軍事理論の不滅の古典である。…

【戦争】より

…こうして戦争は,他の手段をもってする国家の政策の実行にほかならなくなる。戦争の性格のこの変容を鋭く見抜き,あますところなく分析したのが,この時代を生きたプロイセンの士官クラウゼウィツであり,その《戦争論》(1832‐34)は後世の戦争観に決定的な影響力を与えることになる。 クラウゼウィツの戦争論のもっとも大きな寄与は次の命題の定立であろう。…

【戦争】より

…こうして戦争は,他の手段をもってする国家の政策の実行にほかならなくなる。戦争の性格のこの変容を鋭く見抜き,あますところなく分析したのが,この時代を生きたプロイセンの士官クラウゼウィツであり,その《戦争論》(1832‐34)は後世の戦争観に決定的な影響力を与えることになる。 クラウゼウィツの戦争論のもっとも大きな寄与は次の命題の定立であろう。…

【普墺戦争】より

モルトケを中心とする参謀本部の権威は決定的に高まり,後年国王と参謀総長との直結関係(直奏権)の確立の伏線となった。またモルトケはナポレオン戦争の軍事戦略の理論的定式化を行ったクラウゼウィツの《戦争論》を,産業革命の成果と結合させた。それは鉄道や電信・電話の軍事的利用となってあらわれ,普墺戦争の主戦場となったザクセン・ボヘミア方面には,オーストリアの鉄道1本に対して,プロイセンのそれは5本が敷設されていたし,電信・電話による連絡網は,近代的大規模軍隊の統御を容易にした。…

※「《戦争論》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」