世界大百科事典(旧版)内の《日本第一和布苅神事》の言及
【安宅】より
…長唄の名曲として残っている《隈取安宅松(くまどりあたかのまつ)》は《雪梅顔見勢(むつのはなうめのかおみせ)》(1769年11月)の道行の場面であり,《芋洗(いもあらい)勧進帳》の通称で親しまれている《御摂(ごひいき)勧進帳》(1773年11月),《滑稽俄安宅新関(おどけにわかあたかのしんせき)》(1865年10月)などがある。以上が江戸の系統で,上方にも《安宅》の後日物語の場面がある《日本第一和布苅神事(につぽんだいいちめかりのしんじ)》(1773年2月,大坂)などがある。浄瑠璃には,近松門左衛門作に《凱陣八島(がいじんやしま)》(1685),《文武五人男》(1694年7月以前),《殩静胎内捃(ふたりしずかたいないさぐり)》(1713年閏5月)などがあり,並木宗輔には《清和源氏十五段》(1727年2月)がある。…
【並木正三】より
…歌舞伎作者。一説に,正三は〈しょうざ〉ともよむ。(1)初世(1730‐73∥享保15‐安永2) 大坂道頓堀の芝居茶屋和泉屋正兵衛の子。幼時より歌舞伎や操り芝居に出入りし,19歳のとき,泉屋正三の名で三番続きの狂言《鍛冶屋娘手追噂》を書いた。1750年(寛延3)浄瑠璃作者並木宗輔(千柳)の門弟となり並木正三と改め,豊竹座に入ったが,翌年宗輔が没するとまもなく歌舞伎界に復帰,以後20年間に約90編の歌舞伎脚本を書いた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」