《西漢初期長沙侯国南部地図》(読み)せいかんしょきちょうさこうこくなんぶちず

世界大百科事典(旧版)内の《西漢初期長沙侯国南部地図》の言及

【地図】より

…戸籍を意味する〈版〉と組み合わされている〈版図〉という語も《周礼》にみえ,村落の戸口とその疆域を示すものであった。現存する初期の地図としては,近年出土した前4世紀の中山王墓の青銅版の〈兆窆(ちようへん)図〉および前2世紀の馬王堆漢墓から出土したいわゆる《西漢初期長沙侯国南部地図》(絹布)があり,前者は陵墓の平面設計図,後者は山川を模式的ながら平面的にとらえた河川流路の正確な地図である。中国全図としては,1121年(宣和3)刻石の《皇朝九域守令図》(四川省博物館),1136年(劉予政権の阜昌7年,南宋の紹興6年)刻石の《禹跡図》《華夷図》(西安碑林),1142年刻石の《禹迹図》(鎮江博物館)が現存する初期のもので,両禹跡(迹)図には一目を100里とする方格が記入されている。…

※「《西漢初期長沙侯国南部地図》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」