《道賢上人冥途記》(読み)どうせんしょうにんめいどき

世界大百科事典(旧版)内の《道賢上人冥途記》の言及

【地獄】より

…そのためたとえば中世の《地獄草紙》や近世の《立山曼荼羅》などからもわかるように,地獄の景観が山岳世界に求められることが多い。古代末期に作られた《道賢上人冥途記》においては,失神して一時的な他界遍歴をする道賢上人が金峰山浄土で菅原道真に会い,地獄の鉄窟では苛責(かしやく)の苦しみをうけている醍醐天皇と藤原時平を見るが,その場合の浄土と地獄も山中のできごととして語られている。 日本で最初に描かれた地獄関係の絵は,東大寺二月堂本尊の身光の毛彫のなかにでてくる火炎のなかの鬼であるが,のち平安後期になると,中尊寺に残されている紺紙金泥一切経の見返し絵にみられるように地獄変の図柄があらわれる。…

【洞窟】より

…洞窟は,黄泉国,根の国,妣(はは)が国への入口であり,生,死,豊饒,大地,女性などのイメージを宿し,蛇や鬼の住む魔所であるが,一方で神霊の斎(いつ)く聖所でもあるという始源性を帯びている。《道賢上人冥途記》は,941年(天慶4)に道賢(日蔵)が大峰山の笙(しよう)の窟で参籠中に,死んで冥途巡りをして蘇生した話を記し,洞窟が生と死の境にあり,修行者がそこにこもって山霊と交感し,霊力を身につけて再生して山を下る様相を示している。修験者が山を母胎に見立てて,山中の洞窟や岩の割れ目で行う胎内くぐりは,擬死再生を行為によって確証するもので,成年式の試練を果たす意味合いもあった。…

【日蔵】より

…冥途に行った後蘇生した人として知られるが,生没年をはじめ確実なことはわかっていない。《扶桑略記》に引用されている〈道賢上人冥途記〉によれば,日蔵は12歳で出家して金峰山の椿山寺や東寺で修行した。941年(天慶4)金峰山で無言断食の修行中,8月1日に息絶えたが,執金剛神の化身と名のる僧が現れ,冥府六道に導かれた。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」