世界大百科事典(旧版)内のアイダー・デーン党の言及
【シュレスウィヒ・ホルシュタイン】より
…この関係は,1806年に神聖ローマ帝国が崩壊し,ウィーン会議によってドイツ連邦が結成されてからも続き,デンマーク国王はホルシュタイン公の資格でドイツ連邦の構成者となった。
[シュレスウィヒ・ホルシュタイン問題]
しかしこのような状態は,フランス革命後各地で燃え上がった自由主義,国民主義の要求にそぐわず,シュレスウィヒ・ホルシュタインのドイツ貴族が両公国独自の憲法を要求してデンマークからの自立をはかる一方,デンマーク側でも国民自由主義的なアイダー・デーン党が,シュレスウィヒをホルシュタインから切り離してデンマークに併合しようとする運動を起こし,これはデンマーク人の多く居住する北シュレスウィヒに支持者を見いだしたのであった。この問題はデンマーク国王クリスティアン8世(在位1839‐48)とその弟で王位継承者のフリードリヒにともに子どもがなかったこと,またデンマークでは女系相続が認められていたが,ドイツ系のホルシュタインでは認められなかったという事情もからんでさらに紛糾した。…
※「アイダー・デーン党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」