世界大百科事典(旧版)内のアカキオスの分離の言及
【アカキオス】より
…484年,ローマ教会はアカキオスを破門したため,519年までローマ教会とビザンティン教会の交わりが断たれた。これを〈アカキオスの分離〉と呼ぶ。【森安 達也】。…
【キリスト教】より
…東ローマ帝国の諸皇帝は弾圧と妥協を繰り返し,単性論派の離反を食い止めようとした。妥協策は〈カルケドン信条〉を無視することであるから,ビザンティン教会内部の混乱を引きおこし,ローマ教会の強い反発を招いた(妥協の勅令《ヘノティコン》482と〈アカキオスの分離〉484)。特にユスティニアヌス1世の時代は皇帝の教会政策の二転三転によって混乱が極に達し,〈三章問題〉ではすでに解決済みのネストリウス神学が再び攻撃にさらされた。…
【ゼノン】より
…東方国境でのペルシア軍の侵入,トラキアへのフン族の南下もあったが,488年バルカンのゴート王テオドリックの攻撃目標をイタリアに転換させ,民族移動の嵐を逃れた。482年宗教的には異端とされるキリスト単性論者の政治的離反を防ぐため,おそらくアカキオスの示唆によってキリスト両性論との妥協を目指す〈ヘノティコンHenotikon(統一令)〉を出すが,ローマ教皇からも反対され,ローマ,ビザンティン両教会は〈アカキオスの分離〉(484‐519)と呼ばれる断交状態に入った。【和田 広】。…
※「アカキオスの分離」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」