世界大百科事典(旧版)内のアスカニア家の言及
【ザクセン】より
…しかし,このことが逆にシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ1世との対立を不可避ならしめ,結局,1180年の裁判によって獅子公は失脚する。このとき,ザクセン大公領は解体され,大公権は,ケルン大司教に分与された南西部をのぞきアスカニア家Askanierに与えられたが,そのどちらもまた,後に再び大公位に昇格した(1235)ウェルフェン家も,みずからの大公権を基礎として旧ザクセン大公領を再建することができず,爾来この地域では多くの聖俗領邦の分立状態が定着する。そうした領邦の数は,帝国直属資格をもつものだけでも約30にのぼり,そのいずれも局地的な国家形象にとどまるのみで,〈ザクセン〉の名称をひきつぎうるものは一つもなかった。…
【ブランデンブルク】より
…辺境伯ゲロGero(?‐965)は,940年ごろエルベ川以東を征服し,キリスト教化の拠点として司教座ブランデンブルクを建設したが,その後ウェンド人は反乱をくりかえし,983年,ドイツ人はエルベ川の線まで後退を余儀なくされた。1134年,アスカニア家AskanierのアルブレヒトAlbrecht der Bär(?‐1170)が,このエルベ以西(アルトマルク)の辺境伯に封ぜられると,彼は57年までの間にエルベ川以東のスラブ人を再び服属せしめ,またさかんに北西部ドイツから移民を誘致して村や町を建て,みずからブランデンブルク辺境伯と称した。アルブレヒトのあとを継ぐアスカニア家の辺境伯たちのもとで,ブランデンブルクの領域はさらに東方へ拡張され,13世紀の後半にはオーデル川の彼岸(ノイマルク)まで進出,それと並行してドイツ人の植民も推進された。…
※「アスカニア家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」