世界大百科事典(旧版)内のアドワの戦の言及
【アドワ】より
…スエズ運河の開通により重要性を増した紅海沿岸に足場を得ようとして,エチオピアに侵入してきたイタリア軍を,エチオピアはこの地において完全に撃退し(1896),独立国家としての存在を世界に知らせた。〈アドワの戦〉として著名。【鈴木 秀夫】。…
【イタリア・エチオピア戦争】より
…アフリカ進出は,強力国家をめざすクリスピ首相とそれを支持する造船・海運業者によって推進されたが,北部の商工業ブルジョアジーは進出に消極的で国内世論は分裂していた。イタリアの侵略行為はエチオピアの強い抵抗にあい,ついには96年3月アドワの戦でイタリア軍総勢1万6000のうち約6000の戦死者をだす大敗に終わって,クリスピ首相は失脚した。同年10月アジス・アベバ平和協定が結ばれてエチオピアの主権が保障された。…
【エチオピア】より
…エリトリアを除く現在のエチオピアの領土はメネリク2世の時代に確定されたのであるが,そのために彼は,東アフリカに進出しつつあったヨーロッパ列強によく対抗し,イタリア,イギリス,フランスの勢力争いを巧みに利用して,エチオピアの独立を守り抜いた。エチオピアの保護領化を狙うイタリアを96年のアドワの戦(第1次イタリア・エチオピア戦争)で破り,その野望を粉砕したことは,その努力を象徴するできごとである。こうしてエチオピアは,ヨーロッパ植民地主義列強による〈アフリカ分割〉の時代に生き残った,例外的な国になりえたのである。…
※「アドワの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」