世界大百科事典(旧版)内のアポストレイオンの言及
【イスタンブール】より
…コンスタンティヌスの街は,まだ建設途上の330年5月11日開都式を挙げ,第4回十字軍の占領期(1204‐61)を除き,1453年5月29日オスマン帝国のスルタン,メフメト2世の入城まで,ローマ・ビザンティン帝国の首都として,たび重なる異民族の攻撃に対し不落を誇った。 西方のローマに見合うこの東方の新首都づくりのため,コンスタンティヌス帝は市域を4倍の6km2に拡大してそれを城壁で囲い,セウェルスが着工した競馬場(5万人収容)を完成するとともに,かたわらのフォルム・アウグスタエオンを中央広場としてそこに元老院建物,迎賓館,宮殿(12世紀に首都北隅のブラケルナイ宮殿に宮廷が移るまで,歴代皇帝によって,改修・拡張された)などを建て,聖ソフィア教会(ハギア・ソフィア)建設用地を定め(ユスティニアヌス1世のとき実現),また円形のコンスタンティヌス広場を都市生活の中心としてそこに都市行政のための第二元老院建物,大バシリカ,官庁などを設け,城壁近くに聖使徒教会堂(アポストレイオン)を建てて,歴代キリスト教ローマ皇帝(ビザンティン皇帝)の廟墓に定めた。その他,郊外の水源から宮殿まで水道を引き,エジプトからの穀物荷揚げのため,エレフテリオス港をつくった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」