世界大百科事典(旧版)内のアルザマス会の言及
【ジュコーフスキー】より
…1802年T.グレーの《墓畔の哀歌》の翻訳で文名をあげ,カラムジン派のセンチメンタリズム(主情主義)の詩人として世に出た。15年以降,詩的革新を目指すアルザマス会の一員として,ロマン主義の中心的詩人となった。のち,皇帝ニコライ1世,その皇太子(のちのアレクサンドル2世)の傅育官(ふいくかん)となり,皇帝の心をやわらげ,作家たち(プーシキン,ゴーゴリ,シェフチェンコなど)を過酷な運命から救った。…
【バーチュシコフ】より
…フランス語,イタリア語,ラテン語など語学の素養が深く,特にパルニー,タッソ,ペトラルカの影響を強く受け,ロシア詩の中にイタリア風の流麗さとメロディを導き入れようと努めた。1810年ころ,カラムジン派に加わり,古典主義や古語遵守派に抗して新しい文学創造を目指すアルザマス会(1815‐18)のメンバーとなった。訳詩集《ギリシア詩アンソロジーより》(1817‐18)は,プーシキンをはじめとするロシア詩人に大きな影響を与えた。…
※「アルザマス会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」