世界大百科事典(旧版)内のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクの言及
【ドイツ騎士修道会】より
…国土の疲弊やハンザ貿易の衰退のみならず,ドイツ騎士修道会は皇帝や本国からも実質的な援助が得られないまま,ポーランドとの13年戦争ののち66年の第2トルンの和議でポンメルエレンとエルムラントを失い,ドイツ騎士修道会の支配は弱体化していった。最後の総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクAlbrecht von Brandenburg‐Ansbachは1525年にルター派に改宗し,プロイセンを世俗公国とし,みずからプロイセン公として,ポーランド王から封を受けた。このときにプロイセンのドイツ騎士修道会は解体した。…
【マインツ】より
… 1445年ごろ都市門閥出身のグーテンベルクは活字印刷術を発明し,77年選帝侯ディーター・フォン・イゼンブルクは大学を創設した(1798年閉鎖,1946年再開)。1514年大司教位を手に入れたアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクは,借財返済の方便として贖宥状を乱売させ,ルターの宗教改革を招いた。歴代選帝侯は,市内のマルティン城を居所としたが,17世紀にはルネサンス様式の宮殿(今日のローマ・ゲルマン中央博物館)に移った。…
※「アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」