世界大百科事典(旧版)内のイブラーヒームの言及
【アグラブ朝】より
…首都はカイラワーン。ホラーサーン出身の軍人アグラブの息子イブラーヒームIbrāhīm b.al‐Aghlab(757‐812)がアッバース朝の宗主権を認めつつ自立したのが起源である。ハワーリジュ派の反乱,アラブ軍兵士の反抗,法学者の為政者に対する非難など内政は不安定であったが,シチリアの征服(878完了)によってイスラム文化をヨーロッパへもたらし,またマーリク派法学者が優位に立つことによって,マーリク派のスンナ派イスラムをマグリブに浸透させたという点で重要な意味をもつ。…
【アブー・ムスリム】より
…ホラーサーンにおけるアッバース朝革命の指導者。アッバース家のイブラーヒームIbrāhīm b.Muḥammad(701∥702‐749)によって秘密の宣伝者(ダーイー)として派遣され,ウマイヤ朝打倒運動を指導,747年メルブで武装蜂起し,革命軍を西進させてウマイヤ朝軍を粉砕した。その功によりホラーサーン総督となったが,その在任中の751年,中央アジアのタラスで唐の大軍を破り,いっそう名声をあげた。…
【サッファーフ】より
…ムハンマドの叔父アッバースの子孫。打倒ウマイヤ朝のアッバース家運動を指導していた兄イブラーヒームIbrāhīm b.Muḥammad(701∥702‐749)が殺された後,749年クーファに入城した革命軍の推戴を受けてカリフ位につき,翌年ザーブ河畔でウマイヤ朝軍を破り,さらにカリフ,マルワーン2世を殺してとどめを刺した。続いてシーア派の弾圧に転じ,アッバース家の権威を確立した。…
【アブラハム】より
…アブラハムは〈信仰の父〉として,新約聖書においても尊敬をもって想起されている。【並木 浩一】
[イスラムにおけるアブラハム]
アブラハムは,コーランではアーザルの息子イブラーヒームIbrāhīm b.Āzarと呼ばれ,モーセに次いで2番目に多くその名を記されている。コーランはアブラハムについて,およそ次のように記す。…
※「イブラーヒーム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」