世界大百科事典(旧版)内のインドネシア民族教育協会の言及
【インドネシア国民党】より
…それは1910年代から20年代前半にかけて民族主義運動を主導したイスラムや共産主義に代わって,ナショナリズムがそれらのエネルギーを吸収して新たなシンボルとして出現したことを意味し,インドネシアという一体性が強く意識され始めたことを示していた。31年の解散後,国民党の後身はパルティンドとインドネシア民族教育協会の2派に分かれ,前者の論客スカルノと後者の論客ハッタおよびシャフリルとの間には組織論や運動論をめぐる論争が展開されたが,30年代半ばには指導者の逮捕をはじめとする弾圧により両派とも活動は停止した。インドネシアの独立後,46年にこの党名が復活し,サルトノ,マングンサルコロ,アリ・サストロアミジョヨらが率いて,ジャワ中東部を拠点に,官僚層の間に勢力をもつ四大政党の一つとして,数度にわたって国政を担当した。…
※「インドネシア民族教育協会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」