世界大百科事典(旧版)内のウァバラトゥスの言及
【シリア】より
…このオアシス都市は商人貴族の支配する隊商の拠点であったが,3世紀前半にオダエナトゥスが支配権を握るとともに,軍事力を蓄え,内政上の混乱のためにペルシア戦線が手薄になったローマに代わり,東方の防衛をまかされた。夫の死後,実権を握ったゼノビアという女性が事実上の女王となり,子ウァバラトゥスを擁立して,ローマからの独立を宣言した(271)。一時はアナトリアからナイル川流域までを支配し,〈隊商帝国〉を築いたかに見えたが,273年アウレリアヌス帝によって滅ぼされた。…
【ゼノビア】より
…オダエナトゥスはローマ東方を脅かしていたササン朝ペルシアを撃退し,ローマから東方の行政総監督官に任じられたが,ゼノビアは常に夫と共に行軍し,自ら軍の指揮もとった。267年夫が暗殺された後,幼い息子ウァバラトゥスVaballathusをパルミュラ王とし,自らは女王と称して実権を握った。当時ゲルマン民族の侵入に悩まされていたローマからの完全独立と領土拡大を図り,ギリシアの哲学者ロンギノスを招いて外交顧問としてシリアを勢力下におき,さらにエジプト,小アジアに軍隊を送ってこれを征服した。…
【パルミュラ】より
…3世紀半ば,パルミュラの首長オダエナトゥスOdaenathusは東方から侵入してきたササン朝ペルシアを撃退し,ローマ皇帝から東方領の行政総監督官corrector totius orientisの称号を与えられた。267年彼の死後,その妻ゼノビアは息子ウァバラトゥスVaballathusをパルミュラ王としてローマからの独立と領土拡大を図り,小アジアからエジプトに至る広大な領域を征服し,さらに自ら〈アウグスタ〉と称するに及んで,アウレリアヌス帝はパルミュラ討伐に着手,ゼノビアらを捕らえ,273年パルミュラは徹底的に破壊され,その繁栄は終わった。その後パルミュラはディオクレティアヌス帝時代にローマ軍の駐屯地とされたが,7世紀以後アラブにより支配された。…
※「ウァバラトゥス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」