世界大百科事典(旧版)内のウガンダ民族解放戦線の言及
【ウガンダ】より
…アミン政権による国内反対派の弾圧,虐殺は激しさの度合を増し,政府要職者の国外脱出が続出,77年にはウガンダ教会大主教も殺害されて国際的な非難の的となった。 78年11月,アミンの軍隊がタンザニア西部の国境地帯を占領したが,タンザニア軍はウガンダ民族解放戦線(1979年3月結成)とともに逆にウガンダに進攻し,79年4月にカンパラに入り,アミンは国外に逃れた。元マケレレ大学副学長のルレを長とする暫定政権が発足したが,ルレは内部対立から2ヵ月後に解任され,次のビナイサ政権も80年5月のクーデタで失脚し,経済復興は手間取ることになった。…
※「ウガンダ民族解放戦線」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」