世界大百科事典(旧版)内のウトラキスト派の言及
【フス派戦争】より
…そのためジギスムントは教皇マルティヌス5世の勅書を受けて,フス派討伐の十字軍をボヘミアに差し向けたが,軍事指導者ジシュカに率いられたフス派軍はプラハ郊外のビトコフVitkovの丘で十字軍を粉砕した(1420年7月)。 フス派には,大別して南ボヘミアの城砦都市タボルを拠点として終末論的信仰をもち,農民,職人,下層騎士から成る急進的なタボル派と,平信徒も聖杯をもつことを主張した,プラハの都市貴族,大学を中心としたいわゆるウトラキスト派Utrakvistéまたはカリックス派Kališníceと呼ばれる穏健な改良主義者の2派があった。1420年,ウトラキスト派の指導者ロキツアナJan Rokycana(1397以前‐1471)は,(1)神のことばの自由な説教,(2)平信徒によるパンとブドウ酒の両形色における聖体拝領,(3)聖職者の無一物の使徒的生活と道徳的高潔さ,(4)当局による大罪を犯した者に対する処罰(〈プラハの4ヵ条〉)を提示し,カトリック教会と交渉しようとしたのに対し,タボル派は,教会組織を拒否し,厳格な規律による財産共有制をとり,武器をもって神の王国を建設することをめざした。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」