世界大百科事典(旧版)内のエリザベス救貧法の言及
【救貧制度】より
…これらの貧民は,中世における無能力貧民ではなく,盗賊ともなりかねない労働能力をもつ貧民であり,その数もはるかに多く,国家の力をあげて組織的に対処せざるをえなかった。救貧法は近代的制度の嚆矢(こうし)とされるが,その集大成である1601年のエリザベス救貧法は,教(会)区parishを行政単位として,有能貧民と無能貧民に分け,有能貧民と児童とは労役場work house,懲治監house of correction,一般監獄などで懲罰を加えてまで就労を強制し,無能貧民は保護する,というものであった。 その後,居住制限法(1662),労役場テスト法(1722),ギルバート法(1782)の制定や1795年のスピーナムランド制度の導入など,救貧制度にはいくたの変遷が見られたが,産業革命進展の結果,有能貧民は産業労働者と化し,救貧法の抑圧管理の性格は不要となった。…
【救貧法】より
…さらに,当時のエンクロージャーによる農村人口の減少,産業の発展,貨幣悪鋳などの諸要因とあいまって,貧民が大量に発生し,その対策が必要とされたのである。1601年のエリザベス救貧法は浮浪と乞食の禁止と処罰,児童と成人を問わず労働能力ある者の就業,無能力者の保護を末端の地域自治体である教区に命じた。実際の運営は教区の貧民監督官が当たり,必要な経費は救貧税として徴収した。…
【居宅保護・施設保護】より
…17世紀から20世紀初頭まで続いた救貧法の時代をつうじて,この二つの方法は交互に採用された。例えば,イギリスで1601年に成立したエリザベス救貧法は,院外救済を原則としていた。だが,求援抑制的効果を一般的に期待した1834年の新救貧法では,低位性の原則(保護を必要とする貧民の処遇は,一般の労働者の生活よりも低い水準で与えられる必要があるとする考え方)を基本とした労役場workhouseへの収容を前提とする院内救済が実施されることになった。…
【公的扶助】より
…また歴史的に公的扶助を見るならば,資本主義時代の初期において,その発展に伴い大量に発生する困窮者をはじめとして社会問題が簇生(そうせい)し,これに対して国家責任によりその救済,解決に当たらねばならない事態が生じてきた。イギリスの1601年エリザベス救貧法は全国的に制度化された公的扶助の嚆矢(こうし)であるといってよく,救貧制度として幾度かの改正を経て,1948年国民扶助法に至り,前述の狭義の公的扶助が確立した,といってよい。日本についていえば,1874年恤救規則から1929年(施行は1932)の救護法を経て,戦後の生活保護法に至る過程である。…
※「エリザベス救貧法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」