世界大百科事典(旧版)内のエルギン伯の言及
【第2次アヘン戦争】より
…広東周辺では反英運動が高まり,他方,本国のパーマストン内閣は開戦を決定したが,翌年2月下院でR.コブデンの政府反対決議が可決され,パーマストンは解散,総選挙によって開戦を強行した。5月にはエルギン伯LordElginを全権とする将兵約5000名が中国に向かった(途中この軍隊はインド大反乱すなわちセポイの反乱の鎮定に加わった)。フランスのナポレオン3世は,カトリック神父シャプドレーヌが広西省西林で殺害された事件を理由に,グロを全権として共同出兵した。…
【天津条約】より
…19世紀後半,天津において中国と諸外国とのあいだに結ばれた条約の総称。清朝政府は,諸外国との条約の交渉,調印が朝廷のある北京でなされることを嫌い,極力天津において行おうとした。また,1870年(同治9)以降には北洋大臣李鴻章が天津にあって交渉の任についたため,多くの天津条約が調印された(表参照)。内容は多様であるが,なかでも58年(咸豊8)6月26日,イギリス・フランス連合軍の威嚇の下に,清国欽差大臣桂良,花沙納とイギリス全権J.B.エルギン(1811‐63)との間に結ばれた〈英清天津条約〉全56条は,以降の不平等条約の原型となった。…
※「エルギン伯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」