世界大百科事典(旧版)内のカーディシーヤの戦の言及
【ササン朝】より
…632年,ヤズダギルド3世の即位によって王位をめぐる混乱は収拾された。しかし,636年にはイスラム勢力の侵入が始まり,翌年カーディシーヤの戦でペルシア軍が敗北し,首都クテシフォンも奪われた。ヤズダギルド3世はメディアに移って再起をはかったが,642年にニハーワンドの戦に敗れ,651年メルブで暗殺された。…
【サード・ブン・アビー・ワッカース】より
…イラクを征服したアラブ軍の将。クライシュ族ズフラ家の人。ムハンマドのメッカ時代からの信徒。第2代カリフのウマル1世によりイラク征服軍の指揮者に任命され,ユーフラテス川中流のカーディシーヤal‐Qādisīyaの戦でササン朝軍を撃破し,続いて首都クテシフォンを陥れた。南イラクに軍営都市クーファを建設し,その駐屯軍の初代総督(アミール)となった。第3代カリフ選出のための6人の長老会議のメンバーに指名されたが,その後は政界から引退した。…
※「カーディシーヤの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」