世界大百科事典(旧版)内のククルカンの言及
【チチェン・イッツァ】より
…遺跡は3km×2kmの広域にわたり,先古典期からの文化層も見つかっているが,6世紀ころから,プーク様式という,モザイク彫刻で建物の上半分を装飾する建築様式による建造物複合体がいくつか建設され,町は栄え始める。しかし,10世紀に羽毛ある蛇の神ククルカンを掲げる征服者を迎え,前代のプーク様式に,ショチカルコやエル・タヒン(トトナカ文化)の様式が混じった〈ユカタン・マヤ〉様式が生み出される。球技場や戦士の神殿などの新しい様式をもった建物は,基準線をテオティワカン(テオティワカン文化)と同じ方角に定めて建てられた。…
※「ククルカン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」