世界大百科事典(旧版)内のグアダルーペ裁断の言及
【スペイン帝国】より
… 議会をはじめとする制度や法律によって伝統的に王権が大きく拘束されていたアラゴンの場合,フェルナンドは従来の体制を再確認する方向で世論の支持を取り付け,国内秩序の回復を図った。改革といえるものはわずかにカタルニャ農民を封建的慣行から解放して実質的に耕作地の所有者に変えたグアダルーペ裁断(1486)くらいだった。 これに対してカスティリャでは,積極的に王権の優位確立を目ざして一貫した努力が傾けられた。…
【フェルナンド[2世]】より
… 内憂外患の中で終始苦境にあった父フアン2世を助けて早くから政治に関与したフェルナンドは,アラゴン連合王国が13世紀末以来地中海地域にもつ多様な権益をめぐってフランスと鋭く対立,娘たちの結婚によって反仏同盟を結成して,後の2世紀間にわたるスペイン,フランス抗争の発端をつくった。一方,内政面ではアラゴン農民に対する過酷な領主支配を固定化し,次いでカタルニャでは反転して農民側に立った有名なグアダルーペ裁断(1486)で内戦を収拾した。1504年妻の死後,いったんアラゴンに退いたフェルナンドはシスネロス枢機卿の要請で摂政としてカスティリャに戻った。…
※「グアダルーペ裁断」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」