世界大百科事典(旧版)内のグルック=ピッチンニ紛争の言及
【グルック】より
…またパリでは,1752年のブフォン論争以後もくすぶり続けていたフランス・オペラ対イタリア・オペラの優劣の競い合いに巻き込まれ,ピッチンニと同一台本で作曲を競うという,陰謀渦巻く争いの当事者にさせられた。これは一般にグルック=ピッチンニ紛争といわれる。【大 滋生】。…
【ピッチンニ】より
…ナポリ,ローマなどで活躍した後,76年パリに移り住む。パリの音楽界を二分したいわゆる〈グルック=ピッチンニ紛争〉では,グルックの率いるフランス派に対して,イタリア派を代表してグルックと同台本のオペラ《タウリスのイフィジェニ》(1781)を作曲したが劣勢であった。美しい旋律を身上とする多数のフランス語とイタリア語のオペラのほかに,オラトリオ,交響曲,教会音楽がある。…
※「グルック=ピッチンニ紛争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」