世界大百科事典(旧版)内のコジレフスキー,I.P.の言及
【千島列島】より
…松前藩は,17世紀初頭より道東の厚岸(アッケシ)を中継地として間接的に千島交易を行っていたが,17世紀末には東部の霧多布(キイタップ),次いで1754年(宝暦4)国後(クナシリ)に商場(あきないば)(場所)を設け,74年(安永3)厚岸,霧多布,国後の3場所を飛驒屋久兵衛に請け負わせた。 ロシア人は,17世紀末にカムチャツカを征服した後,そこを足場にして南下を開始し,1697年コサックの首領アトラーソフVladimir V.Atrasovがカムチャツカより北千島を望見,1711年(正徳1)アンツィフェーロフDanila Ya.AntsiferovとコジレフスキーIvan P.Kozyrevskiiがシュムシュ島,パラムシル島に遠征し,39年(元文4)にはベーリング探検隊の支隊シパンベルグMartyn P.ShpanbergとウォールトンVilem Val’tonが千島列島を南下して仙台および安房沖に達した。以後狩猟,交易,毛皮貢税(ヤサク)徴収を目的に千島への進出はいっそう顕著になり,68年(明和5)コサックの百人長チョールヌイIvan Chyornyiが毛皮貢税徴収のため択捉島まで到達したのをはじめ,78年には,シベリアの企業家ラストチキンの派遣したシャバーリン一行が根室半島のノッカマプ,次いで翌79年厚岸に来航して松前藩吏に通商を求めるに至った。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」