世界大百科事典(旧版)内のコルベルティスムの言及
【コルベール】より
…彼は貨幣の量が国力を決定するとの基本的な観念からも,世界に流通する貴金属,貨幣の中でのフランスの取り分増加を最大の課題とし,貿易を通じてこれを果たすため保護関税を強化し,東インド会社,北方会社などの特権貿易会社を振興し,毛織物,ゴブラン織,ガラスなどの輸出向け産業で特権マニュファクチュールを設立・育成し,非ギルド的な手工業を宣誓ギルドjurandeに編成して統制強化を図った。彼の経済観念も諸施策も革新的なものではなく,すでにラフマ,リシュリューら先駆者をもつが,経済状況の悪化と財政上の要請から,彼の施策は対外的には“貨幣戦争”という著しく攻撃的な性格を帯び,国内でも強権的で煩瑣な国家統制・国家後見を伴い,コルベルティスムColbertismeと総称されて王室的重商主義の典型といわれる。コルベルティスムは間接税の増収など一時的な成果をあげたが,イギリス・オランダの商工業との格差を克服できず,特権事業は不振に陥り,総じて“危機への絶望的対応”にとどまり,高関税率はオランダ戦争を招いて財政を破綻させた。…
【重商主義】より
…J.ポレックスフェンなどが保護主義の代表者であるが,この保護主義も国内産業の生産力全体の上昇ではなく,労働・雇用・勤労の差額として貿易バランスを順にもたらすかぎりでの生産力上昇を企図していたにとどまる。 18世紀にはいると,フランスの絶対主義的重商主義(コルベルティスムcolbertisme),とくにイギリス産毛織物に対する重関税政策に対抗して新市場を獲得するためにメシュエン条約(1703),ユトレヒト条約(1713)が締結され,後者の付帯条項〈英仏自由通商条項〉に関しては〈英仏通商論争〉が引き起こされたが,結局,英仏の自由通商は1786年のイーデン条約まで延引された。この論争の渦中で保護主義者C.キングは保護関税の必要と低賃金の実現とを説いたが,これに対し自由貿易論者D.デフォーは《イギリス経済の構図》(1728)などで,高賃金による消費増大に基づく国内市場形成と労働意欲・生産力増大による輸出製品の実質的低廉化の必要を説き,保護主義者の悲観的見地からの転回を意図した。…
※「コルベルティスム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」