世界大百科事典(旧版)内のコーチシナ共和国の言及
【インドシナ戦争】より
…一方,ラオスでは反仏組織ラオ・イッサラ(自由ラオス),カンボジアではソン・ゴク・タンSon Ngoc Tanh首相らが中心となって,3月の独立が再確認された。しかし9月に復帰したフランスは3国の独立を認めず,まずサイゴンの行政権を奪取し,翌46年南部ベトナムを切り離してコーチシナ共和国を成立させた。ベトミン系の南部行政委員会はただちに全面抗戦に入った。…
【コーチシナ】より
…フランス領期における南部は,米田プランテーション地域として最も強く植民地体制に組み込まれたため,民族運動史においても立憲党やカオダイ,ホアハオ両教団のように,一貫して北部の共産党指導の運動とは一線を画していた。戦後も1946年にはサイゴンのブルジョアジーがコーチシナ共和国を建ててベトナム民主共和国から分裂自立し,この承認問題が第1次インドシナ戦争の原因の一つとなった。コーチシナ共和国は49年にバオダイ・ベトナム国に吸収され,以後コーチシナの名称は公式に消滅した。…
※「コーチシナ共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」