世界大百科事典(旧版)内の《サタンの書の数頁》の言及
【デンマーク映画】より
…また他方では,新興のスウェーデン映画がデンマーク映画に代わって北欧を支配するようになり,第1次世界大戦後のデンマーク映画は急速に衰弱していく。《密書》(1913)でデビューした怪奇趣味のベンヤミン・クリステンセンBenjamin Christensenは,スウェーデンで彼の最高傑作として知られる《魔女》(1919‐21)を撮り,それからドイツをへてハリウッドにいき,《悪魔の曲馬団》(1926),《妖怪屋敷》(1928),《恐怖の一夜》(1929)といったアメリカ製の〈ホラー映画〉に北欧の神秘主義から生まれたその怪奇趣味を埋没させ,また,《裁判長》(1918)と《サタンの書の数頁》(1919)でデビューしたカール・ドライヤーも,スウェーデン,フランス,ドイツをへて(怪奇映画の傑作として知られる《吸血鬼》(1932)はドイツとフランスの合作映画である)戦後になってやっとまたデンマークに戻るまで孤高の歩みを続けることになった。 その後は60年代に脚光を浴びたヘニング・カールセン(《飢え》1966,《花弁が濡れるとき》1967),70年代に登場したイェンス・ヨーゲン・トースン(《クリシーの静かな日々》1970)といった監督の名が記憶される。…
【ドライヤー】より
…デンマークの映画監督。デンマーク映画最大の巨匠であり,ジャンヌ・ダルクの苦悩と殉教の意義をクローズアップの連続で彼女の内面に分け入るようにして描き〈サイレント映画最後の傑作〉とされる《裁かるるジャンヌ》(1928),魔女狩りの犠牲となる女性を主人公に17世紀の社会を精神史的に再現した《怒りの日》(1944),狂人と思われていた男の祈りによって一人の女性が死からよみがえる《奇跡》(1955)など,人間の精神の営み,とりわけ信仰について探求した作品は映画史上の特異な存在となっている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」