世界大百科事典(旧版)内のシチリア遠征の言及
【ガリバルディ】より
…54年サルデーニャ王国に帰国して,地中海の小島カプレラ島に居を定め,カブール首相とも接触を保ちながらピエモンテ政府の後援するイタリア解放のための組織〈国民協会〉に協力する。59年,対オーストリア第2次独立戦争に義勇兵から成るアルプス猟歩兵軍団を率いて戦果をあげるが,彼の生地ニースをフランスに譲渡するなど外交関係を重視するカブールの方針と対立し,60年5月義勇兵約1000人と共にシチリア遠征を敢行する。蜂起したシチリア民衆と共同してブルボン軍を破り,シチリアを制圧したあとナポリまで攻め入って,両シチリア王国の崩壊に導いた。…
【リソルジメント】より
…サルデーニャ王国は領土拡大に際し,王家発祥の地サボイアおよびニースをフランスに譲渡して,ナポレオン3世との摩擦を避けた。民主主義派はこうしたカブールの政策に対して革命を外交化するものと批判を加え,60年5月ガリバルディら約1000人がシチリア遠征を敢行した。 この遠征はシチリアにおける反ブルボン闘争に合流し,さらに半島南部に渡って,南からローマを攻める目標を立てていた。…
※「シチリア遠征」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」