世界大百科事典(旧版)内のシャリー,D.の言及
【MGM】より
…とくに〈女性の撮影所〉と呼ばれたほど女性観客を重視し(その記念碑的代表作が《風と共に去りぬ》1939),また,《ブロードウェー・メロディ》に始まり《巨星ジーグフェルド》(1935),《オズの魔法使》(1939)を経て,アーサー・フリード製作の《踊る大紐育》(1949),《巴里のアメリカ人》(1951),《雨に唄えば》(1952),《バンド・ワゴン》(1953),《恋の手ほどき》(1958)に至るミュージカル映画を特色の一つにして発展した。30年代と40年代前半が最盛期であったが,観客の減少による不況期には,タルバーグ亡きあと42年に製作担当副社長になったドーリ・シャリー(1905‐80)が低額予算と合理主義による製作方針で腕をふるった。50年代になってハリウッドを襲ったテレビの脅威,下院非米活動委員会の攻撃,独占禁止法による映画事業の部門分離などの問題をかかえた苦悩の時期を迎え,内紛の結果メイヤーに続いてシャリーも去り,ミュージカル映画やW.ワイラー監督《ベン・ハー》(1959)などの大作を製作したが政策に一貫性がなく,60年代の初めに経営がきわめて悪化した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」