シュラフタ民主制(読み)しゅらふたみんしゅせい

世界大百科事典(旧版)内のシュラフタ民主制の言及

【シュラフタ】より

…これ以後,セイムの同意なしには,いかなる法律も国王は制定できなくなって国政の決定権はシュラフタの代表機関セイムが握ることになった。〈シュラフタ民主制demokracja szlachecka〉の始まりである。 法的にシュラフタは全員が平等ということになっていたが,一方で〈ラティフンディウム〉と呼ばれた広大な領地(白ロシア,ウクライナに多い)をもつマグナート(大貴族)と呼ばれるシュラフタもいれば,他方で自ら農作業に従事し農民となんら変わるところのなかったシュラフタや,まったく農地をもたないシュラフタ(小シュラフタ。…

【ポーランド】より

…ライ麦輸出で得た経済力を背景に彼らはセイムでその政治的な発言力を強めていった。(2)シュラフタ民主制,マグナートの台頭 1505年には〈ニヒル・ノビNihil novi〉と呼ばれる特権がラドムのセイムで決議され,シュラフタが構成するセイムの同意がなければ,国王は何事も決定できないことになった。いわゆる〈シュラフタ民主制〉の登場である。…

【ヤギエウォ朝】より

…こうした東方指向は19~20世紀にいわゆるヤギエウォ理念を生み,J.ピウスーツキの外交政策に一定の影響を与えた。ヤギエウォ朝は国内において弱体であったため大小の貴族に次々と譲歩を余儀なくされ(たとえばニェシャワの特許状,1454年),シュラフタ(貴族)民主制と呼ばれる独特の封建制議会民主主義を出現させた。学芸面ではヤギエウォ朝は熱心な保護政策をとり,ルネサンスや宗教改革思想の影響の下にポーランド文化の第1期黄金時代を実現した。…

※「シュラフタ民主制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」