世界大百科事典(旧版)内のジャウハルの言及
【イフシード朝】より
…その間彼はハムダーン朝やファーティマ朝の侵略をよく防いだ。しかしカーフールの没後はムハンマドの孫のアフマドAbū al‐Fawāris Aḥmadが即位したものの,北アフリカから侵入して来たファーティマ朝の将軍ジャウハルJawharの軍隊に敗れ,滅んだ。【森本 公誠】。…
【カイロ】より
…トゥールーン朝(868‐905),イフシード朝(935‐969)の時期には,フスタートの北東にそれぞれアスカルal‐‘Askarとカターイーal‐Qaṭā’i‘の町を建設し,東方からのイラン人,トルコ人,アルメニア人,西方マグリブからのベルベルの流入もみられた。
[カイロの発展]
チュニジアに興ったファーティマ朝が969年エジプトを占領すると,将軍ジャウハルJawhar(?‐991)はカターイーの北方ムカッタムの丘の麓に区画整然たる矩形の都城カイロ(カーヒラ)Miṣr al‐Qāhiraをつくり,2年後に首都もここへ移ったが,これは政府諸官庁や王侯貴顕,直轄軍などの所在する政治・軍事中心で,経済面ではこの時代にフスタートが最盛期を迎えた。運河はこのころ廃れたが,ナイル川上流のクースから紅海に面する港アイザーブに出るルートが発達して,東はインド西海岸に至るまで,西はマグリブからサハラ砂漠を越えて西スーダンまでがフスタートの商業圏にはいり,西スーダンからの多量の金の流入とも相まって,コプト,ユダヤの両教徒やアルメニア人の商人がアラビア海と地中海をまたにかけて活躍した。…
【ムイッズ】より
…この戦いでムイッズは優勢に立ち,北アフリカ,地中海でファーティマ朝は安定した勢力を確立した。その後エジプト征服計画に着手し,969年にジャウハルJawhar(?‐991)を遣わしエジプトを征服したムイッズは,973年に新しい都カイロに入った。シリアへの進出を試みたが,事業半ばにして没した。…
※「ジャウハル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」