世界大百科事典(旧版)内のスティムソン・ドクトリンの言及
【スティムソン】より
…続いて29年フーバー政権の国務長官に就任し,30年のロンドン海軍軍縮会議にアメリカ代表として参加。また満州事変にあたっては,侵略による征服の不承認を内容とする〈スティムソン・ドクトリン〉を提唱した(1932)。33年のローズベルト政権成立時に政権引継ぎ役を務め,その後再び弁護士に復帰したが,第2次大戦時の超党派的統一を意図したローズベルトによって陸軍長官に起用された(1941‐45)。…
【戦間期】より
…1931年9月,日本軍は奉天(瀋陽)北方の柳条湖で軍事行動を起こし,まもなく全東北を占領した。これに対して西側諸国は,アメリカが侵略の結果を承認しないとするスティムソン・ドクトリンを発表しただけで,日本の侵略行動を事実上黙認したが,その後,日本は国際連盟の微温的な決議にすら反対して国際連盟を脱退した(1933年3月)。ドイツでは33年1月,ヒトラーのナチス政権が成立し,〈生存圏〉の獲得をめざして本格的な再軍備にのりだした。…
※「スティムソン・ドクトリン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」