世界大百科事典(旧版)内のチレンブエ,J.の言及
【チレンブエの反乱】より
…1915年1月末,アフリカ南部,内陸のニヤサランド(当時イギリス保護領,現在のマラウィ)のアフリカ人キリスト教徒ジョン・チレンブエJohn Chilembwe(?‐1915)とその一党が白人農場主4人を殺傷し,弾薬庫を襲撃したが,植民地政府当局の報復で鎮圧された事件。反乱の動機は,農場主がモザンビーク人労働者を移入して以降の現地人の労働条件の悪化,第1次大戦勃発後のイギリス軍による現地兵大量徴発にあった。…
【ブース】より
…1889年イギリスはニヤサランド(現,マラウィ)を保護領としたが,その直後の92年単身ニヤサランドに赴いてバプティスト教会の伝道本部を設立し,〈アフリカ人のためのアフリカ〉の旗印の下にシーレ地方を中心に布教活動を行った。その際チレンブエ(のちのチレンブエの反乱の指導者)をキリスト教に帰依させ,彼を連れてアメリカに渡ったことはよく知られている。アメリカで白人キリスト再臨派教会やものみの塔運動に近づいたブースは,その後白人による指導を拒否したチレンブエとたもとを分かち,一足先に南部アフリカに戻って布教を再開した。…
※「チレンブエ,J.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」