世界大百科事典(旧版)内のツィーグラー,A.の言及
【退廃芸術展】より
…1933年3月,ゲッベルスが国民啓発・宣伝担当の大臣になると,ナチスの文化統制は激化し,ユダヤ人の美術館員追放,近代美術の押収,押収作品のみせしめ展(ドレスデンの〈芸術の堕落の反映〉展,マンハイムの〈文化ボリシェビズム〉展,ニュルンベルクの〈芸術お化け屋敷〉展,カールスルーエの〈退廃芸術〉展など)があいついだ。同年9月,アーリヤ人の証明書をもつ文学者,芸術家,ジャーナリストのみ登録され,あらゆる表現を検閲許可する帝国文化院が発足し,その院長となったA.ツィーグラーは,押収作品による大規模な〈退廃芸術〉展の巡回を企て,37年6月最初のミュンヘン展の初日にはヒトラー,ゲッベルスも臨席して大キャンペーンをくりひろげた。1933年以後,ドイツの101の公共コレクションから排除された造形作品は,ユダヤ人や共産主義の作家,労働者・農民の苦難や反戦を表現した作品,表現主義,キュビスム,未来派,抽象芸術,バウハウス関係など計2万7000点に及ぶ。…
※「ツィーグラー,A.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」