世界大百科事典(旧版)内のトリエステ自由地域の言及
【トリエステ】より
…両軍の合意により,市を含むA地域を英米軍,それ以外をB地域としてユーゴ軍がそれぞれ占領することになった。47年のパリ講和条約で,この地域を非武装中立の〈トリエステ自由地域〉として,国際連合の管轄下に置くことが決まったが,翌48年に西側諸国は全地域のイタリアへの返還を要求し,それを拒否するユーゴ,ソ連側と対立した。その後ソ連とたもとを分かったユーゴと西側との外交折衝が再開し,54年に英米側がA地域のイタリア帰属,B地域のユーゴ帰属を提案して,同年10月のロンドン協定で合意に達した。…
※「トリエステ自由地域」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」