世界大百科事典(旧版)内のナーランダー寺の言及
【玄奘】より
…中国,唐代初期の僧。西域,インドへの求法僧で,一般には三蔵法師として知られる。俗姓は陳氏。洛陽に近い陳留郡(河南省)緱氏県に生まれた。13歳のときに出家し,兄の長捷法師のいた洛陽の浄土寺に住んで経論を学んだ。まもなく隋・唐王朝交代期の混乱期にあい,618年,兄とともに長安に入ったが,兵乱のために学僧の多くが蜀(四川省)に逃れて仏法の講席ひとつさえなかったので,ついに蜀におもむき空慧寺に入った。622年(武徳5)に具足戒をうけ,まもなく成都から長江(揚子江)を下って荆州に出,相州,趙州をへて落着きを取り戻した国都の長安に舞い戻り,大覚寺に住んで道岳,法常,僧弁といった学僧から俱舎論や摂大乗論の教義を授けられた。…
【大唐西域記】より
…巻一には往路に通過した西域の34国について述べ,巻二から巻十一まではインドの諸国について,巻十二に帰路に経由した西域諸国の旅行記をつづっている。とくに仏教の発祥地であり,当時の仏教教学の一大中心たるナーランダー寺の所在した中インドのマガダ国については巻八と巻九の2巻分をあてている。正確無比と称せられる本書は,旅行記の中の白眉であり,当時のインドと中央アジアの歴史地理,仏教史,言語史の資料としてきわめて貴重である。…
【密教美術】より
…それは密教の大陸における盛衰と日本における独自の展開によるものであり,ここではまずアジア的視野で概観を試みる。
【アジア的視野】
南・中インドの竜樹系の〈中観(ちゆうがん)論〉と,北・中インドの無著・世親系の〈唯識論〉が接触したナーランダー寺は,パーラ朝には密教学の中心となった。仏教が,バラモン教を摂取したヒンドゥー教の隆盛に対応するため,これらと妥協し,回生を計ろうとしたところに密教学は確立された。…
※「ナーランダー寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」