世界大百科事典(旧版)内のニュー・バウハウスの言及
【アメリカ美術】より
…19世紀後半以降,機能主義と造形主義の洗礼によってデザイン上の変革が起こり,さらに大量生産・大量消費という社会的条件の変化によって全面的な変質が迫られた。1920年代後半にベル・ゲッデスNorman Bel Geddes(1893‐1958),ティーグWalter Dorwin Teague(1883‐1960)らがインダストリアル・デザイナーとして独立し,37年にはシカゴでL.モホリ・ナギの指導下に〈ニュー・バウハウス〉が設立されデザイン教育の中心となった。第2次大戦後は家具の分野で,ヨーロッパ出身の建築家のほかネルソンGeorge Nelson(1908‐86),C.イームズらが機能主義的造形を生み出した。…
【バウハウス】より
…これによってドイツでのバウハウスは終わったが,グロピウス,モホリ・ナギ,ミース・ファン・デル・ローエ,アルバースらはそれぞれの移住先で,その教育方針を継承することになる。とりわけ,モホリ・ナギが37年シカゴに創設した〈ニュー・バウハウス〉(現,インスティチュート・オブ・デザイン)は,アメリカにおけるデザイン教育の中心となった。 バウハウスに対する評価は,それにつづく時代によって影響をうけざるをえない。…
【モホリ・ナギ】より
…28年グロピウスの辞職に伴いバウハウスを去ってベルリンに移住,幅広い活動を続け,30年には《光・空間調整器》や映画《光の遊び,黒・白・灰》を制作。その後アムステルダム(デ・ステイルのメンバーと交わる),ロンドンを経て37年シカゴに渡り〈ニュー・バウハウス〉を設立。経営が軌道にのりかけた46年に白血病で没す。…
※「ニュー・バウハウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」