世界大百科事典(旧版)内のハロルドの言及
【クヌット[2世]】より
…しかし在位中のデンマーク滞在期間は非常に短く,デンマークにおける彼の政策に関しては不明な部分が多い。彼の死後,後継をめぐり,嫡子でデンマーク王となっていたハルデクヌットHardeknud(在位1035‐42)とその異母兄ハーラルHarald Harefod(英名はハロルド1世,在位1037‐40)とが対立し,1037年ハーラルがイングランド王位に就き,ハルデクヌットは亡命を余儀なくされた。40年ハーラルの死去でハルデクヌットが登位したが,2年後に他界し,デンマークではノルウェー王マグヌス1世善王が,イングランドではエドワード懺悔王が王位を継承,ここにクヌットの北海帝国は崩壊した。…
【ウィリアム[1世]】より
…ノルマンディー公ロベールの庶子で,1035年父をついで公となる。66年イングランドのエドワード懺悔王が死に,その義弟ハロルド2世が王を称すると,ウィリアムは懺悔王の遠縁に当たることなどを理由に侵入,ヘースティングズの戦でハロルドを破ってイングランド王となった。イギリス史上これを〈ノルマン・コンクエスト〉という。…
【ノルマン・コンクエスト】より
…イギリス中世史上,一大画期をなす。この年の初め,アングロ・サクソンのウェセックス家の王統を継ぐエドワード懺悔王が嗣子なくして死ぬと,その義弟にあたるウェセックス伯ハロルド(1022?‐66)が王を称した。しかしウィリアムは,自分が懺悔王の遠縁にあたること,懺悔王が以前から自分に王位を約束していたこと,またかつてハロルドが自分に臣従を誓ったことなどを理由に,王位を要求してイングランド侵入を準備した。…
【ヘースティングズの戦】より
…エドワード懺悔王の死後,イングランド王位をめぐって争ったノルマンディー公ギヨーム(のちのウィリアム1世)とイングランドのウェセックス伯ハロルドとの間の決戦。1066年9月末,ギヨームはノルマン騎士を率いてイングランド南岸に上陸,ヘースティングズHastingsに橋頭堡を築いた。…
※「ハロルド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」