世界大百科事典(旧版)内のパトノートル条約の言及
【フエ条約】より
…これを第1次フエ条約(アルマン条約)という。しかし北部の官吏はこれを認めず,清も大兵を派遣して黒旗軍とともにフランスに対抗したため,フランスは北部全域の完全占領を行い,他方84年6月パトノートルはフエで実力者グエン・バン・トゥオン(阮文祥)との間に第2次フエ条約19ヵ条(パトノートル条約)を結んだ。これで第1次フエ条約が確認されたほか,北部の分割とフランスの主権が認められ,87年に成立するフランス領インドシナ連邦の基礎が固められた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」