世界大百科事典(旧版)内のビクラマーディティヤの言及
【チャンドラグプタ[2世]】より
…生没年不詳。ビクラマーディティヤVikramāditya(超日王)の名でも知られる。父王サムドラグプタの征服事業を継承,西方のマールワー,グジャラート,カティアーワール半島に進出し,ウッジャインのサカ(シャカ)勢力を平定した。…
【チャールキヤ朝】より
…以後両王朝間に抗争が繰り返されることとなり,王の晩年には逆に都バーダーミを占拠され,十数年間王朝支配は空白を余儀なくされた。654年ころビクラマーディティヤ1世Vikramāditya Iによって王朝が再興し,7代王ビジャヤーディティヤVijayādityaの治世には最も平和で安定した時期を迎えた。次王ビクラマーディティヤ2世は,パッラバ朝の都カーンチーを3度にわたって占拠し,デカン進出を企てたアラブ勢力を阻んだが,封臣たちがしだいに地方の有力者と化し,755年ころ9代王キールティバルマン2世が封臣のダンティドゥルガDantidurgaによって廃されて,その地位をラーシュトラクータ朝にとって代わられた。…
【チャールキヤ朝】より
…以後両王朝間に抗争が繰り返されることとなり,王の晩年には逆に都バーダーミを占拠され,十数年間王朝支配は空白を余儀なくされた。654年ころビクラマーディティヤ1世Vikramāditya Iによって王朝が再興し,7代王ビジャヤーディティヤVijayādityaの治世には最も平和で安定した時期を迎えた。次王ビクラマーディティヤ2世は,パッラバ朝の都カーンチーを3度にわたって占拠し,デカン進出を企てたアラブ勢力を阻んだが,封臣たちがしだいに地方の有力者と化し,755年ころ9代王キールティバルマン2世が封臣のダンティドゥルガDantidurgaによって廃されて,その地位をラーシュトラクータ朝にとって代わられた。…
【チャールキヤ朝】より
…以後両王朝間に抗争が繰り返されることとなり,王の晩年には逆に都バーダーミを占拠され,十数年間王朝支配は空白を余儀なくされた。654年ころビクラマーディティヤ1世Vikramāditya Iによって王朝が再興し,7代王ビジャヤーディティヤVijayādityaの治世には最も平和で安定した時期を迎えた。次王ビクラマーディティヤ2世は,パッラバ朝の都カーンチーを3度にわたって占拠し,デカン進出を企てたアラブ勢力を阻んだが,封臣たちがしだいに地方の有力者と化し,755年ころ9代王キールティバルマン2世が封臣のダンティドゥルガDantidurgaによって廃されて,その地位をラーシュトラクータ朝にとって代わられた。…
※「ビクラマーディティヤ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」