世界大百科事典(旧版)内のフベルトゥスブルクの和の言及
【七年戦争】より
…シュレジエン戦争(1740‐42,44‐45)でプロイセンに敗れたオーストリアのマリア・テレジアと,プロイセン王フリードリヒ2世との間で行われた戦争(1756‐63)。世界史的に見れば,海外植民地をめぐる英仏両大国の権力闘争の一環をなしている。 オーストリアは,シュレジエン奪回をめざす報復戦争にそなえて,カウニッツWenzel Anton Kaunitz(1711‐94)の外交努力により,16世紀いらい敵対関係にあったフランスとの同盟に成功し,さらにロシアの支援をも獲得した。…
【シュレジエン戦争】より
…3次にわたるプロイセンとオーストリアの戦争で,同時に長期にわたるイギリスとフランスとの植民地戦争と重なり,ドイツにおけるプロイセンの,また世界におけるイギリスの優位をもたらした。(1)第1次(1740‐42) マリア・テレジアのオーストリア相続を認めていたプロイセン王フリードリヒ2世(大王)は,代償にシュレジエンを求めて占領し,オーストリア継承戦争の口火を切った。反オーストリアのブルボン連合に支援されてバイエルン公カール・アルブレヒトの皇帝即位(カール7世)が実現すると,プロイセンはイギリスの調停により,ブレスラウ(現,ブロツワフ)に和を結び,シュレジエンを確保する。…
※「フベルトゥスブルクの和」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」