…そして,1547年にはエルンスト系からザクセン選帝侯位とウィッテンベルク地方を獲得し,旧領と合わせてここにきわめて豊かで強力なウェッティン家のザクセン選帝侯国ができ上がった。この国は選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世Friedrich August I(在位1694‐1733)の時代に最盛期をむかえ,ポーランド王も兼ね(在位1697‐1733)いわゆるドレスデン・バロックの文化も花開いた。1806年,フリードリヒ・アウグスト2世はナポレオンの支援をうけて王位につくが,敗戦の後,ウィーン会議により北チューリンゲンからラウジッツに至る広い領土をプロイセンに割譲した(プロビンツ・ザクセンProvinz Sachsenの成立)。…
…三十年戦争で,1635年プラハ条約によりラウジッツが選帝侯領に加えられると,ドレスデンはエルツ山脈の鉱山地帯と広い農村繊維工業地域を後背地にして経済的に繁栄する。トルコ戦争に参加し,ポーランド王(アウグスト2世)も兼ねた選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(強王)Friedrich‐August I(1670‐1733)の時代には,18世紀ドイツ・バロックの真珠といわれるフラウエン教会,ツウィンガー宮殿,日本宮殿なども建設され,マイセン磁器もこのころ始まる。3回にわたるシュレジエン戦争,ついでナポレオン戦争による戦禍を受け,政治的には衰退した。…
…
[啓蒙と未熟]
17~18世紀におけるドイツの領邦諸国家の国制は,西欧諸国と同様に絶対主義のそれであり,18世紀後半には絶対主義は啓蒙絶対主義の段階に入る。啓蒙絶対主義はプロイセンのフリードリヒ2世,またオーストリアのヨーゼフ2世など大国の君主の統治様式に見られるのみならず,ザクセンのフリードリヒ・アウグスト3世義人公Friedrich August III der Gerechte(在位1763‐1827)やザクセン・ワイマールのカール・アウグストKarl August(在位1775‐1828)等中小国にも数多くの例をもって,18世紀後半のドイツ諸国の政治を特徴づけている。しかし〈啓蒙された〉君主の上からの指導力が大きな役割を果たしたことは,反面,国民の下からのイニシアティブの欠如をも意味するのであって,このことはドイツの経済の後進性と,それに由来するブルジョアジーの未成熟の問題と関連している。…
※「フリードリヒ・アウグスト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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