世界大百科事典(旧版)内のブハラ人民ソビエト共和国の言及
【タジキスタン】より
… 17年タシケントでのソビエト政府の成立は,タジキスタン北部でのソビエト政権樹立に大きい意義をもったが,ブハラ・ハーン国では青年ブハラ党の要請にもとづいて進攻した赤軍がアミールの軍隊にブハラ入城をはばまれた。アミールはコルチャークやドゥートフなどの白衛軍やバスマチ運動と結び,反動的な内外政策をとりつづけたが,20年8月のチャルジュイ(現,チャルジョウ)での武装蜂起を機にM.V.フルンゼの率いる赤軍が入城,アミールは逃亡し,10月にブハラ人民ソビエト共和国が成立した。この革命は,身分制や専制,大地主的所有や農奴制の廃絶をめざす反封建的性格のものであるが,十月革命の影響のもとに共産党と赤軍が大きな役割を果たし,外国の干渉を排し,反革命の基地となることを防いだという点でロシア革命の一環であり,モンゴル人民革命と共通の性格をもつものであった。…
【トルクメニスタン】より
…しかし干渉軍は19年4月には撤退を余儀なくされ,20年2月6日クラスノボーツクも解放され,全土にソビエト政権が復活した。20年にはヒバ人民ソビエト共和国とブハラ人民ソビエト共和国が成立する。 国内戦の期間にもともと未発達であった工業,石油採掘業,鉄道は荒廃し,播種面積は半分となったが,ただちに復興が始まり,21‐22年には土地・水利改革が行われた。…
※「ブハラ人民ソビエト共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」