世界大百科事典(旧版)内のブリュッセル協約の言及
【ハプスブルク家】より
…こうした結婚政策はフランスとの対立を激化させ,これと結んだオスマン・トルコの北上を招いたが,26年モハーチの戦でのラヨシュ2世の敗北はボヘミア・ハンガリー両王国を王家に結びつけたのである。皇帝カール5世は宗教改革による教会と帝国の分裂のなかで,22年のブリュッセル協約によってドイツの家領と皇帝位の継承権を弟フェルディナント1世とその系統に譲らねばならなかった。また彼は長い対仏戦争とウィーンを包囲したオスマン・トルコの圧力のために,帝国では諸侯と妥協し,意に反する55年のアウクスブルク宗教和議の翌56年みずから退位し,ここにオーストリア系とスペイン系への両統分立が確定する。…
※「ブリュッセル協約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」