世界大百科事典(旧版)内のブルジー・マムルーク朝の言及
【マムルーク朝】より
…しかし1347‐48年のペストの大流行によって都市と農村の人口は激減し,ナーシル没後は幼少の息子たちが相次いで即位したために,実権を握るアミールたちの抗争によって政局は混乱を極めた。 この機に乗じてチェルケス人マムルークのバルクークが政権を握り,ブルジー・マムルーク朝を開いたが,この時代のスルタンは家系によらず,有力アミールの選挙によって選ばれるのが慣例であったから,軍閥相互の勢力争いは一段と激しくなった。またペストの流行も相次いだために経済状態はさらに悪化し,エジプト市場から金貨と銀貨が消失して,やがて銅貨の時代が始まった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」